モザンビークにいってきた2~首都マプト

2016-04-20

モザンビークの首都マプトは海に面した港町。標高が高い南アから下ると蒸し暑くて息が苦しいような感覚に。例年なら気温の高い夏は雨が降って、その後に涼しくなるらしいのだけど、今年は干ばつのせいで気温は高いまま。

ネコが日陰から出ない

首都は都会でビルがバンバン建ってます。植民地時代(~1975)に建てられた建物が多いんですが、最近また建築ラッシュのようで工事中の建物も目立ちます。渋滞もすごい。




人ぎゅうぎゅう+屋根に荷物のミニバス

トラックの荷台に人満載

ミニバスの事故はよくニュースで聞くけど、トラックの荷台に人乗ってるやつの事故は聞いたことないなと思っていたら、モザンビークの夜のニュースで数名死亡+多数重体っていうのをみたので、やっぱり危ないみたい。

自動車パーツ屋はパーツの絵を描くことになってるみたい。

この国は20年くらい前まで社会主義だったので、アフリカ諸国の独立運動のヒーローたちの名前に加えて、「カール・マルクス通り」「毛沢東通り」「ウラジーミル・レーニン通り」とかあって新鮮です。

 
社会主義的壁画(でもアフリカ調)

今回の旅行で初めて知ったモ国と社会主義の国との関係。
  • 独立直後モ国には十分な学校がなかったので多くのモ国人がキューバで勉強してて、キューバにはモ国人専用の学校があった。
  • モ国人は東ドイツでも研修(特に織物)してて、そのせいでドイツにはそれなりの数のモ国人がすんでいる。
  • かつては北朝鮮もモ国に来ていた。
などなど。ぜんぜん知らない世界だったよ。

ビールをいっしょに飲んだソビエト留学経験がある人の話も非常に面白く、

「いやー、ソビエトでいっぱいウオッカをのんだよー。学校の寮でさ、禁止なんだけど、俺たち外交官扱いだったから鞄のなかとか部屋とか・・・」
「いろんな国から、 ニカラグアとか、アンゴラとか、ラオスとかからきててさ、ニカラグア人の同級生は途中で政変があって退学になっちゃったよ。」
「授業?ロシア語だよ。1クラス4~5人で、全員母国語が違うやつを同級生にするんだよ。だから1年たつころにはロシア語はバッチリだね。」

これも歴史としては新しいのに、ぜんぜん知らない知らない世界だったよ。

さて、マプトでは同級生の職場を訪問。

棚が美しい

廊下には種や実の標本

こういう瓶とか超いい

100年以上前の古い本。見てみたいけど怖くて触れない。

コレクションの多くは植民地時代になされたもので、内戦・その後の地雷撤去までブランクがあるそうです。また、専門的な仕事をちゃんとできるスタッフがいなかったり、組織にお金がなかった時期もあるはず。僕らが行った時もエアコンのスイッチが入ってなくて同級生はキレていましたが、その割に古い標本もコンディションは驚くほどよかったです。
「大事だけど急ぎじゃない」扱いのこういう仕事が、いつまでたっても後回しになってしまうのはしょうがないのかな?

同級生の家にお世話になっていましたが、VIP扱いにしてくれたっぽい。魚が高級だった。

左上の赤い魚って高級なミーバイ?
ちなみポル語ではPeixe vermelho(赤魚)らしい。

つづく

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